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何才になっても挑戦していいんだ! ー ビビリで人見知りな私がニューヨークで学んだ大事なこと【前編】

ご自分では “ビビリ” だというものの、単身でニューヨークへ渡ったり、やってきたこととは全く別の世界へ飛び込んだりと、行動力あふれる三輪夏生さん。そんな三輪さんに、これまでの多彩な人生とそしてご自身と絵の関わりについてお話いただきました。

小さい頃から絵を描くことは、ごく自然なことだった

—— いつ頃から絵を描くようになったのでしょう?

小さいときから絵を描くことが好きで、幼稚園の頃には絵を習わせてもらっていました。絵を描くと家族がすごく褒めてくれて、それがすごく嬉しくて。皆が褒めてくれたことが、描くことの自信につながっていったのかなと思っています。

—— 好きなことを伸ばしてくれる、そんなご家庭だったんですね。

そうですね。年の離れた兄と姉がいるんですが、兄が学生だった頃よく絵を描いていたので、その影響も大きかったと思います。よく一緒に絵を描いて遊んでくれて、私は兄を真似て絵を描いていました。

小学校の頃は漫画が好きで、周りの友だちも絵を描くのが好き、漫画も好きって子が多かったので、描いた絵を交換したり、漫画のセリフを読み合ったりとか、そういった遊びをよくしていました。そういった環境で育ったので、私にとって絵を描くことは、ごく自然なことだったんだなと思います。

—— お兄さん、お友だち、絵を描くことが好きな人たちに囲まれて育ったんですね。

高校のときはファッションにも興味があったので、ファッションコースのある学校に進学したんですが、部活は美術部だったので、絵は毎日のように描いていました。顧問の先生がとても熱心な方で、教育や道具などの環境を整えてくださって。その先生から受ける影響も大きかったですし、何よりも恵まれた環境で創作できたことで、表現の幅がすごく広がりました。

その流れで大学は、美大を受けようと考えていたんですが、あるとき母から「海外留学したら?」と提案されて。私もそれを聞いて、すぐに「じゃあ、そうする!」って返して(笑)。高校を卒業して一ヶ月後には、アメリカのニューヨークへ渡りました。

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三輪夏生さんの作品

もっと自由に表現していいんだ!と学んだニューヨーク留学

—— ニューヨーク留学!

当初は1年間の予定だったんですけど、すごく楽しくて、結局3年近く住んでいました。

ニューヨークにはたくさんのアーティストが暮らしていて、絵に限らず、音楽やダンス、写真、いろんなジャンルの方が集まっていて、本当に刺激的な日々を送っていました。

—— お母さんから留学を提案されたとのことですが、どんな考えがあってそうしてくれたのでしょう?

姉が高校と大学のときに留学していたこともあって、留学に対するネガティブなイメージがなく、むしろもっと世界を見てきなさいっていう考えがあったんだと思います。

あとは、小さい頃から、私が好きなことは自由にやらせたい、そういうスタンスで育ててくれていたので、私が好きな絵を続けられるようにという思いから、背中を押してくれたのかなって。今まで直接聞いたことはなかったんですが、いつも応援してくれているので、そうなのかなって思っています。

—— ちなみに語学は全く問題なかったんですか?

語学は、問題大アリでしたね(笑)。でも、スクールで出会った友だち(互いに留学生)と、カタコト英語でどうでもいい話をするのが楽しかったです。

あと、私には絵があったのと、音楽が好きだったおかげで、それを通じて友だちができました。音楽とかアートとか、共通のテーマだったり、好きなものがあると、仲良くなりやすいですからね。絵を描いている者同士で、こんなの描いてるよって、絵を見せ合ったり、クラブで一緒に踊ったりしていました。

—— ニューヨークでの生活を振り返ってみて、いかがでしたか?

本当にいろんな人がいるんだっていうことを学びました。もう、何でもいいんだなって(笑)。18歳までずっと岐阜で暮らしていたんですけど、岐阜にいた頃は、誰もがそう思う “普通” みたいなものがあったんです。

でも、ニューヨークでは、その “普通” が全く通用しないことが、本当にたくさんあって。絵に関しても、もう何でもいいんだ!っていう。もう何色だっていいし、どんな設定でもいいし。おかげで、表現するものに対してもっと自由でいたいって思うようになりましたね。

—— もう何でもいいんだな!って感じたことで、印象的なエピソードはありますか?

絵のことではないんですけど、アルバイト先で一緒に働いていた同僚が、14歳くらいの少年だったことは衝撃でしたね。同僚が少年って、日本じゃありえないじゃないですか。その子は移民で、国にいる家族に仕送りしてるんだって言ってました。

そんな子たちが、私の住んでいたエリアにはけっこういて。移民とか子どもの労働とか、そういったけっこうシビアな問題の当事者のはずなのに、本人たちは毎日楽しそうに生きていて。これはいったい何なんだろうって。今笑っていることが一番大事だって、いつもニコニコしながら働いているんです。

なんだか自分の中で、これはこうだ!と思っていたことが覆されたというか、いろんな意味ですごく印象に残っています。

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文化の違い、習慣の違いを経験できた異国での生活

—— 三輪さんご自身は、ニューヨークではどんな暮らしをされていたんですか?

ニューヨークへ移った当初は、アメリカ人家族のお宅にホームステイしていました。漫画でもいくつかエピソードを紹介しているんですけど...。

—— 読みましたよ!歓迎パーティーの話は、けっこうびっくりしました(笑)。

そうなんです。歓迎パーティーのお料理が、限りなく生に近いブロッコリーと人参、あとは大量のタイ米とマッシュポテトだったという(笑)。

なぜこのラインナップなのか疑問には思ったんですが、当時はまだそれを質問できるだけの語学力がなくて。もともと食事は別々という契約だったので、それがホストファミリーと一緒に食べた最初で最後の食事になってしまったので、より印象に残っていますね。外国のごはんって、なかなか面白いですよね(笑)。

ホームステイ先にお世話になった後は、同年代の人たちとルームシェアをしていました。いろんな人と一緒に住んだんですけど、1番長く一緒にいた子は、日本人の男の子で、音楽をやっている人でした。

—— ルームシェアとはいえ、異性と一緒に住むというのも、日本の感覚からしたらびっくりですよね。

そうですね。でも向こうだと普通なんですよ(笑)。私が知る範囲では、男女のこじれとかトラブルとかは聞いたことがなくて、皆けっこう普通に一緒に暮らしていました。

私も一緒に住む人は、男性でも女性でも性別はどっちでも良かったんですけど、日本人がいいなとは思っていましたね(笑)。性別より文化とか価値観の違いの方が大変だなと。

—— 文化や生活習慣が近い方が一緒に暮らしやすいって、よく聞きますね。ホームシックはありましたか?

あまりなかったですね。最初の1年は、そんなこと考える暇もないくらい大変でした。いろんなことのスピードが速すぎて、最初の一週間は実家に連絡できないくらいバタバタしていましたね。

あと、人見知り・場所見知りするタイプなので、1年くらい経って、ようやく楽しいなって思えるようになりました。最初の1年は、ただただ慌ただしく過ぎていったという記憶しかありません(笑)。

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絵本制作をきっかけに飛び込んだ “保育” の世界

—— 日本に戻られてからは、どのような活動をされていたのでしょう?

まず、岐阜ではなく東京に移ったので、日本に慣れる、東京に慣れるための時間が必要だったのと、ニューヨーク生活での疲れとで、帰国したばかりの頃は、制作意欲はかなり下がっていました。なので、制作も細ぼそという感じで、ほとんど活動休止の状態でした。

—— 何かまったく別のことをされていたんですか?

実は、美大を受験しました。美大受験用の予備校にも通っていたんですが、落ちてしまって。また予備校に一年間通って、来年受験をするかどうするか悩んでいたときに、職業訓練校でWEBの技術を学べることを知ったんです。

PhotoshopとかIllustratorとかのソフトを使えるようになった方が断然いいよね!ってことで、美大受験は辞めて、WEBの技術を身につける方に行きました(笑)。そのおかげで、今のWEBのお仕事にもつながっています。

その後、25歳のときに初めて個展を岐阜で開催しました。ニューヨーク時代に描いていたような、カラフルでポップなアクリル画や漫画などを展示しました。

—— 個展はどのような経緯で?

個展を開催したギャラリーのオーナーさんが、たまたま「コーヒースタンド Mameya Spoonful (旧まめや) 」に描いた壁画を見て、店主の母に「これ描いたの誰や?」って聞いてくださって。そこから個展の話につながりました。

—— 個展をきっかけに、創作活動を再開されたんですか?

そうですね、次の年も同じギャラリーで個展を開催させていただきました。このときは絵本の原画を展示したんですが、制作する過程で、絵本の対象である子どもにすごく興味が出てきて。これはちょっと保育園で勉強してみたいなって思うようになって、保育園でアルバイトを始めました。

—— え!保育園でアルバイトですか!?

はい。すっごい大変なんですけど、同時にすっごい楽しくもあって。こんなに笑える仕事ってあるんだ!って。実際に子どもたちと触れ合ったことで、人の発達にも興味がでてきて、これはもう専門的に学ぶしかないなって。それで、保育の専門学校に通い始めました。

—— 専門学校にまで!? 絵も引き続き描きながら通っていたんですか?

当時は保育の勉強が忙しくて、全然描いてなかったです。このままもう、絵を描くことはなく、保育士として生きるのかな、なんて思ったこともありました。

でも卒業が近づくにつれ、やっぱり絵の仕事がしたい、やっぱり絵を描きたいって気持ちがどんどん強くなって。保育士の資格は取得したんですけど、保育士にはならず、卒業と同時にWEBの仕事に就いて、フリーランスでイラストの仕事も始めました。

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何才からだって挑戦できる!そんなマインドにしてくれた海外生活

—— 心のおもむくままに進む!!!という印象をうけました!

あっちに行ったり、こっちに行ったりしてますよね(笑)。

—— これまでの人生を振り返ってみて、いかがでしょう?

結局、戻ってきたなって感じですね(笑)。

別に何才であっても、いろんなことに挑戦できるんだなって、ニューヨーク留学中にそういうマインドになりました。向こうの学校では、いろんな国からいろんな年齢の方が来ているので、年齢とか性別とか人種とか、そういうのを意識しないことが多かったので。そういうのが身についたことで、やりたいって思ったことは、素直に行動に移せてきたのかなって思います。

—— 何でもトライしてみたらいいじゃないと。

保育の専門学校に通っていた間は、全く絵を描かなかったんですけど、でもおかげで、その時やりたかった保育の勉強には集中できたし、保育士としては働いていないけど、勉強した時間は全然ムダじゃない、むしろ必要な時間だったんだって思っています。

保育で学んだことは、今イラストの仕事でも活かせているし、今後、絵本制作でもこの経験が活きてくると思っています。保育の世界に飛び込んでいった経験が、これからどんどん、自分の強みになっていくんだろうなって、そう感じています。

—— ニューヨークに行く前は、素直に行動に移せていなかったのでしょうか?

そんなこともないんですが(笑)。

ニューヨークに行ったことで、より行動に移すようになったとは思います。確実に。ニューヨークには、そうさせてくれる環境がありましたからね。

文:mecelo編集部 / 写真:林 直幸

後編では、保育の専門学校時代に研究された「絵本におけるジェンダー」から、ご自身との向き合い方、そして今後の挑戦までさまざまなテーマでお話いただきます!

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Icon三輪夏生

イラストレーター、アーティスト