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自分のアートを追求しつづけ、たどり着いた先にあったのは、大好きな “音楽” だった【前編】

「線譜」と呼ばれる繊細で精密なペン画を描く、武 盾一郎さん。インタビュー前編では、武さんが絵を描き始めたいきさつから、当初のアート活動、そして自らのアートの原点についてお話しいただきました。

救ってもらった恩返しとして、ずっと描き続けている

—— 25歳から絵を描き始めたそうですが、どんなきっかけがあって描き始めたのでしょうか?

それまでは、ずっとバンドをやっていました。でも25歳のときに、バンドの解散と失恋とが重なって、めちゃくちゃに落ち込んでいた時期があって。

「あぁ、僕の人生も終わったな...」ってふさぎ込んでいたところ、妹が、自身が高校生のときに通っていたという美術予備校に連れて行ってくれたんです。「そういうときは、絵でも描いたらいいんじゃない」って。

よくわからないまま、言われるがままに美術予備校で絵を描き始めたんですが、それがきっかけでした。

—— きっかけは、たまたま連れて行ってもらった美術予備校だったんですね。

そうなんです。絵が好きだから、得意だから描き始めたわけではなくて、ひどく落ち込んでいたときに偶然出会って、そして描くことで救われたんです。

—— 救われた?

はい。美術予備校では、配られたモチーフをひたすら何時間もかけて描くんですが、それを毎日つづけていたら、落ち込んでいた気持ちが徐々に和らいでいったんですね。

当時は抑うつの薬も処方されていたくらいだったんですけど、毎日もくもくと描いていたら、だんだんと薬の助けもいらなくなっていきました。絵を描くことが、僕を救ってくれたんです。

それで救ってもらった恩を返したいなと思って、25歳の時に「僕はこれからずっと絵を描き続けよう、僕の一生を絵に捧げよう」って、自分に約束して、それからずっと今まで描き続けています。

—— 描くことで、恩を返しているんですね。

「僕の一生を捧げよう」だなんて、すごくきれいごとのように聞こえるかもしれませんが、当時はガチでしたね。どん底の状態から救ってくれたことに、本当に感謝していました。

02

予備校での2年間で、自分の芸術観が育っていった

—— 絵に人生を捧げると決意されてから、具体的にはどのような活動を始められたんですか?

25歳からの約2年ほどは、美術予備校で毎日ひたすらに絵を描いていました。毎日、渡されるモチーフをだまって描く。当時は、ただただ何かに没頭するとか、落ち込んでいる状態を忘れさせてくれるものが必要だったので、描ければモチーフは何でもよかったんです。

ただ予備校なので、課題が終われば講評がありました。優秀な人たちの課題は棚の上のほうに飾られるんですが、僕の課題はいつも通称「おくら」と呼ばれる場所に置かれていました。2年の間、一度も棚の上に飾られることはなかったですね(笑)。

—— 描ければいいということでしたが、やはり評価も気にはなると。

もちろん、上の棚に飾られたらいいなとは思っていました。でも、どんなに頑張ってみたところで、上にあがれることはありませんでしたね。

ただ、講評を受ける中で気づいたことがあって。それは、僕がいいなと感じた絵は、なぜだかいつも良い評価をされないんです。講師からはよく「これでは受からないよ」って言われていて。でも僕からしたら、それらの絵はすごくかっこよかったので不思議でした。

でもそのうちに、それは単に「美大に入るために必要な絵」にマッチしていないだけだということがわかって。と同時に、僕は「入学するために必要な絵」ではなく、自分が良いと感じる芸術をもっと突き詰めてみたいと思うようになったんですね。

美術予備校で2年を過ごすうちに、徐々に僕の芸術観、アート感覚みたいなものが育っていったんだと思います。

—— 「自分の芸術を突き詰めたい!」という思いに目覚めて、そこからアーティストを目指されるわけですね。

「絵で食って行くぞ!」とか、「アーティストになって有名になりたい!」みたいな野望は、漠然とはありました。でも、じゃあ、そのために何をしなければいけないのか?とか、そういった手順みたいなことを考えることが全くできなくて。

というのも、当時の僕は「私にとっての芸術とは何か」を証明することが、何よりも重要なことだと考えていたんです。

「私にとっての芸術とはこうである!」というのを目に見える形で表現したい。それが他人からどう評価されるのかとか、それがどう収入につながるのかとか、そういうところまでは正直考えが及んでいませんでした。

とにかく、「私にとっての芸術とはこうである!」という証明ができないことには何も始まらないと、本気でそう思っていたんですね。

武 盾一郎さんの作品

社会への反発はアートでやるべきと本気で考えていた

—— なぜそこまで、 “証明すること” にこだわったいたんですか?

当時の僕には、絵の到達点とは落書き以上でも以下でもないというか、「本気の落書き」こそが絵画なんだという考えがありました。

ありったけの気持ちを込めて落書きすることが、本当の意味での「絵画」なんじゃないかって、本気で思っていたんです。だから、それを上手く表現して見せたいという気持ちがすごくあって。「僕の落書き(絵画)ってこうなんだぜ!」 「芸術ってこうなんだぜ!」みたいな(笑)。

—— ご自身の中にあった “考え” を、まずは身をもって証明しようとされたんですね。

そうですね。そうやって、自分なりの表現をいろいろ試していきたいと思うようになったのが、27歳のとき。1995年でした。

1995年って、年が明けてすぐに阪神淡路大震災、そして3月には地下鉄サリン事件があった年です。とくにサリン事件は、友人が事件のあった地下鉄と同じ線で通勤していたこともあって、僕にとってもすごくリアルな事件でした。

—— 事件を知って、どのように感じられたか覚えていますか?

連日の報道を見るうちに、僕にはなぜか「なんでそれをアートでやらなかったのか?」という疑問が湧いてきました。そういった「発散」的なことを、アートでやる人たちが日本にもっとたくさんいたら、もしかしたらあのような悲劇は起こらなかったんじゃないかって。

いま冷静になって考えてみれば、すごく単純で、楽観的な発想ではあるんですけどね。でも当時は、国家や社会への「反発」やら「発散」やら、そういったことを何でアートでやらないんだよ!って本気で思っていました。

アートだったら、あまりに衝撃的な作品に目がくらんで倒れる人はいるかもしれないけど、毒を吸って死んでしまうなんてことはないじゃないですか。

—— 主張があるならば、アートで表現するべきじゃないかと。

そういうことをやる人がいま日本にいないんだったら、それこそ自分がやるべきことなんじゃないかって、そんな風にも考えていましたね。

でもそんなことを考えながらも、実際の行動には移せずウダウダしていたときに、予備校で一緒だった友人とたまたまカフェでお茶することになったんです。

話すうちに、「僕たち、表現したくない?ストリートで表現したくない?」 「じゃあ、やろっか!」って、その日のうちにふたりで新宿に繰り出しました。その時は、とにかくストリートで何かやっちゃおうぜ!って感じだったんです。

03

自分のアート観と合致した “ダンボールハウス画”

—— ゲリラアートみたいなことをしてやろうと?

そうです。でも新宿に行ってみたところで、まぁ描けないんですよ(笑)。思いっきりグラフィティでもやってやろう!って気持ちで乗り込んでいったのに、全然描ける雰囲気じゃなくて(笑)。

勢い込んで行ったのに、すっかり意気消沈しちゃって。沈んだ気持ちのまま新宿西口の地下道に向かって歩いていたんですけど、当時はそこにたくさんのホームレスたちが暮らしていたんですね。

で、無数にある彼らのダンボールハウスをみて、その壁に絵を描かせてもらおうってひらめいたんです。

—— ダンボールハウスにですか!?

そうなんです。それで近くのダンボールハウスを訪ねて、中の人に「僕たち絵を描いている者なんですけど、あなたの家の壁に絵を描いてもいいですか?」って聞いてみたんです。そうしたら、「いいよ!」って。「ありがとうございます!」って感じで、そこからダンボールハウスの壁に絵を描き始めました。

そこら中にあるダンボールハウスを訪ねては、「絵を描かせて下さい!」ってお願いして、絵を描かせてもらっていましたね。

そんなことを続けていたら、いつの間にかいろんな方から声をかけられるようになって。雑誌の人が面白がって取材に来たこともありました。いつしか、自分でもびっくりするくらい注目を浴びるようになってしまって(笑)。

—— ユニークな活動として、注目されたんでしょうね!

当初、計画していたこととはぜんぜん違う活動にはなってしまったんですけど、ダンボールハウスに絵を描く行為自体が、なんとなく自分が思い描いていた「アートってこういうこと」のイメージとバッチリ合った気がしたんですよね。

—— どんな点がバッチリ合ったんですか?

当時の僕がやりたいと思っていたアートって、要は世間一般的にいわれているようなアートではなくて、王道からは外れているような、そういうものでした。そのちょっと “外れている” というところが、ホームレスだったり、ダンボールハウスだったりとリンクするところがあったんだと思います。

「外れてるほうが面白いんだぜ!」みたいなことを、声高に言ってやりたかったんですよ、当時は(笑)。

04

“外れている側” にいることが、僕のアートの原点

—— なるほど。王道ではないところがポイントだったんですね。

でも実際は、そんなのんきな話では全くなくて。ホームレスの方たちの生活は本当に過酷ですから。

彼らのねぐらに出入りさせてもらうようになって気づいたんですけど、僕らがもくもくと絵を描いていると、近隣のホームレスの方たちが差し入れを持ってきてくれるんですよ。

ホームレスは貧しいって言われてるじゃないですか。でも、人が絵を描きたいってお願いすれば了承してくれたり、頑張って描いていれば応援してくれたり、食べ物だって豊富にあるわけでもないのに、あれば分けてくれたり。

そういったやり取りから感じたのが、豊かな人たちだけが文化を育む担い手ではないんじゃないかということ。僕は、自分のアートを通じて、ホームレスである彼らもアートを支える一人になっているんだということを証明したんです。

一般的にはお金がないと文化的にはなれないと思われがちですが、お金がなくてもアートに触れて、アートとともに生きることが可能なんだって、芸術の可能性みたいなものをちょっと広げることができたのかななんて、当時は思ったりしましたね。

—— あえて “外れていること” をやることで、逆に芸術そのものの可能性を広げられたのではないかと。

僕のアートの原点として、予備校の講師から全く評価されない絵であったり、誰も見てくれそうにないダンボールハウスをキャンバスにしたり、どこか “外れちゃってる側” であることへの意識というのがすごくあるんですよ。

“外れちゃってる” って、なんだかちょっとかっこよく聞こえるかもしれませんけど、そんな生易しいことでは全くなくて。外れちゃってるが故の生きづらさ、大変さみたいなものは当然あります。でもそういったきれい事だけでは済まされない、複雑な感じをも含めて表現したいって思いますよね。

文:mecelo編集部 / 写真:須志田泰輔

後編では、現在の作品「線譜」が誕生したきっかけから、音楽を描くことについて、そして今後のチャレンジについてお話しいただきます。

武 盾一郎さんインタビュー 後編はこちら

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線譜画家